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言葉へのツッコミは認識の確認

以前「デザインの前の言語化」というエントリーで、大事な部分を言葉で表現できるのが個人的には好き、みたいなことを書いたのですが、確かに言葉にはこだわりがあるけれど、もっと大事なのは言葉で表現されている認識の部分である。なんてことをこの数日改めて感じています。

僕は言葉には結構こだわる方です。誰かが何気なく口にした言葉に対して、たぶん当人の予期しないタイミングでもツッコミを入れます。それは、感情を表すような表現だけじゃなく、ちょっとした専門用語や、日常語の組み合わせ方にまで及びます。僕が口を挟むのは、言葉の美しさとか正確さとか、そういう表面的なところではありません(と少なくとも自分では思ってます)。その言葉がチョイスされた背景にある、その人の感覚、認識、価値観といった部分が気になるのです。

僕が口を挟むのは、相手が何気なく言った言葉、相手が「意味をとりたてて説明しなくてもいい共通認識のあるもの」と思っているような言葉、議論の場などの重要な会話ではない時に発せられる言葉、という場合が多いです。多い、というか、そういうときに決まって、その人の素の感覚や認識が言葉になって出てくるものだから、当然気になるわけです。そして、流さずにわざわざ口を挟むくらいだから、自分との感覚のギャップが見えているわけで、僕もそう簡単にゆずれません。結果、揉めます。なんでそんな言葉尻を捕まえるのか?とか、それはそんな厳密に使うべき言葉なのか?とか、相手が理解できないこともしばしば。早々に「もういいよ!今の発言はナシ」とか撤退されてしまったりします。うーん、べつに喧嘩をふっかけてるつもりはないんですけどね。

Web制作という仕事をしていると、クライアントからお願いされたり、逆に制作側からお願いしたりすることがよくあります。そのとき、相手のことをどう考えているかで、何をどのように頼むのかの言動が変わってきます。どこまでが相手の仕事でどこからが自分の仕事か、自分と相手の立場の違いをどう捉えているか。言動の裏にそれが見えたとき、気持ちよく頑張れたり、逆に釈然としない気分になったりするものです。

僕の場合、まぁ相手にもよりますが、気になるレベルであれば口を挟みます。もちろん口を挟むことで良からぬ展開になるリスクを考えてはいますが、少なくとも「仕事だから笑顔で粛々と」ということはしません。認識にギャップがある場合、早い段階でそれを表面化させることで良い方向に持っていける可能性だってあるので、違和感をそのまま溜め込むようなことはしないようにしています。多少の言い合いも可能な関係であれば、それに越したことはありませんし。

これは、受注と発注という仕事の関係に限らないことだと思います。同じWebのデザインでも、サイトのユーザーに対してどんな感情を抱いているのかで、その接し方(デザインの施策)は変わってくるでしょう。ユーザーは自分たちの同士なのか、お客様なのか、単なる数字でしかないのか、それによって提供するものや姿勢は変わってきます。少なくとも、デザインに関わる人の間でその認識が一致していないと、ちぐはぐなものが生まれてしまい、狙った結果を得られなくなります。その意味でも、認識のギャップを埋める作業は必要になります。

もっと言えば、生きている以上、他者と何かをするときは、そういう感覚や認識の相違に心を動かされていくものです。同じ対価をもらう仕事にしても、やっぱり気持ちよくやれた方がいいし、思いを同じくできる方がいいし、その方がよい結果を生みやすい。現実はそううまくいかないものですが、少しでもうまくいくように手をかけることは、僕は嫌いではありません。

F's Garageのえふしんさんが、ブログを読んだ人に怖い人だと思われることがある(けど実際にあったらその誤解は解ける)といったことを書いていて、僕はえふしんさんのブログを読んで一度も怖いと思ったことはないのですが(お会いしたことがないのが残念!)、なぜそう思われるのかと考えると、はっきりと意見を言っている部分がそうさせるのかな、と思います。そういうや僕も「怖い人だと思ってました」と言われたことは一度ではないし(笑)、なんでだろう、やっぱりこういうエントリーを書いてるからかもしれません。はっきり言わないと訳がわからない文章になるので、そこは変えるつもりはありませんが。

口から発せられたものでも、文章であっても、言葉を読み解くときは、その背後にあるものも感じつつ行うというのは、いたって普通のことでしょう。ニュアンスや文脈が問題になるのも、そういうことをしているからとも考えられます。でも同時に言葉は、脊髄反射してしまうようなインパクトも持っているから、なかなか難しい。ただ、何を言ったかではなく、何を思っているかが結局は大事なのだから、立ち止まって、その思いから言葉を問いなおすことは意味があることだと思うんですよね。互いの思いというのは、理想ほどはシンクロしていないものだから、そのギャップを埋める機会に出会うことは、そう珍しいことではないと思っています。

ツッコミを入れた結果、微妙に言い合いになる。そんなことを繰り返す日常というのは確かに疲れるんですけど、それでもいいかな、とまた思い直す結果になってしまいます。発せられた言葉の訂正を求めているのではなく、互いの認識をオープンにして、理解して、どこまで互いが歩み寄れるか。歩み寄れた結果がひとつでもあれば、そこまでの苦労は別にどうでもよくなるのかな、とか思いながら。