もうロボットでええやろっていう
- 2017年12月12日
- 教育
同じ入門科目の授業担当を複数クラスで何年か続けていると、自分がロボットになったような感覚に陥る。学習者の顔ぶれや状況によって多少のアレンジは必要だけれども、伝える中身も方法も基本的に毎回そう変わらないので、自分の振る舞いもパターン化されてくる。もうパッケージにしちゃったらええやん、と自分で自分にツッコミを入れたくなる。
現実的なことを言えば、それをどんなメディアでパッケージにするかは問題になる。昔ながらの紙の教科書なのか、YouTubeのような動画配信なのか、SNS機能を伴った学習サービスなのか、美少女キャラの出てくるゲームっぽいアプリなのか。学習者ごとに合う・合わないはあるだろうし、教師から対面で教えてもらいたい人もいるだろう。そのことを考慮して多くのメディアに水平展開する、というのはコスト的に見合わないかもしれない。
でも、裏を返せば、そこにはコスト的な問題くらいしかないとも言える。そんなに遠くない未来に、テクノロジーとビジネスアイディアが解決してくれるのではないか。スマートフォンが数年であっさりと僕らの日常の風景を変えてしまったように。
IT、最近はAIの話などをすると、教師から「人間にしかできないこと、教師にしかできないことがある」というコダワリ発言が聞かれたりするが、そのコダワリのパフォーマンスが輝くような分野・場所を教師が見定めないといけないな、と思っている。
その場の状況や学習者ごとに対応が必要なときというのは、入門の入門ではなく、ある程度学習が進んだ段階じゃないだろうか。最初は分からないことだらけで選びようがない、だから手ごろなパッケージで始めました、という学習者は、やがて得意不得意、理解のバラつき、関心の方向性、学習の進捗度を自覚するようになり、個別のニーズに合った学びを欲するようになる。そういう段階になれば、教師の知見を活かしたサポートにも価値を見いだしてもらえるだろう(このへんもすでにAIとかが手を出しているわけだけど)。逆に言えば、最初のパッケージはお手軽で安い方がいい。
だからこれからの教師は、パッケージを作って売る仕事か、パッケージを終えた学習者のサポートをする仕事か、という2つの軸を意識した方がいいのではと思う。教師によってどちらが得意か、あるいは好きかも違ってくるだろうし、どちらか1つに絞るべきものでもないけど、中途半端は厳しくなるはず。だって、そんな中途半端な現場の最たる例が、学校の入門授業だと思うから。
つまり「ヤバいのはオレのやってることやんけ」っていう。