中途半端を生かす道
- 2013年12月02日
この記事は「DevLOVE Advent Calendar 2013『現場』」の23日目でもあります。ちゃちゃきさん(@chachaki)よりお誘いいただいて、yohhatuさんからのバトンをつなぎます。
Advent Calendarの流れだと「初めまして!」な方も多いと思いますし、付き合いの短くない友人からさえも「そういや毎日何して過ごしてるの?」と普通に聞かれたりするので、最初に自己紹介がてら、普段やってる仕事と、そこに至る経緯的なものを書いておきます。
自己紹介とか
角南 北斗(すなみ ほくと)と言います。WebではTwitterをはじめ、だいたい「shokuto」というアカウントで活動しています。名字の頭文字と名前をつなげただけの文字列なので、特に読み方とか(よく聞かれますが)考えてません。
大学では日本語教育を学んでいました。卒業後は出版社に入って雑誌「Mac Fan」の編集長になる夢を抱いていましたが、採用試験の途中で何となく辞退して大学院に進学。日本語学校などで日本語教師の仕事も始めます。あいつは研究者か教師の道に進むのだろう・・そんな周囲の予想を裏切り、2年で大学院を出てWebの専門学校に進学。1年間のお勉強期間を経ても特に働きたい会社が見つからず、何のあてもなくフリーランスとしてWeb制作業を始めました。
当然しばらくは仕事がなかったのですが、大学院時代の知人からの仕事をきっかけに、日本語教育機関のサイト制作や、日本語学習者向けのWeb教材の開発協力の依頼が来るように。教育関係者と何かいっしょに仕事をしては、その成果を学会で発表し、そこで知り合った方と新しく何かを始める、というサイクルが今も続いています(詳しい活動内容については履歴のページをどうぞ)。
また、日本語教師のキャリアは3年で事実上途絶えたのですが、教える仕事自体はずっと続いていまして、ジャンルはけっこう様々です。今後予定のものも含めると、MS Office系やAdobe系のソフトの使い方入門にはじまり、コミュニケーションやプレゼンテーションを題材にしたワークショップ、図書館司書向けの情報サービスに関する講義、果ては飲食店開業支援講座(実はこれがいちばんキャリアが長いw)まで。
僕と「現場」との関係
長い自己紹介はここまでにして、今回のAdvent Calendarのテーマは「現場」です。ちゃちゃきさんいわく「わりと開発現場に即したネタが好まれる」のだそうです。それを聞いて思ったのは「あぁ、エンジニアにとっては、自身が開発作業をしている場所が『現場』だという認識が多いのかもな」ということでした。
というのは、僕は開発を行っている場所を「現場」と表現することが、あまりないからです。ひとりで最初から最後まで実装しちゃう、あるいは同じフリーランスのエンジニアさんといっしょにやるぐらいの少人数・小規模開発が多く、各自が自分の作業場で開発するので、場所を共有して何かするのは重要な打ち合わせぐらい。だから自分たちのことを「開発部隊」とイメージすることはあっても、あまり「場」という言葉は浮かびません。
では、僕にとっての現場は?というと、やはり「教育現場」でしょうか。教室など学習が起きている場所ですね。でも、そこが僕自身が普段いちばん長く時間を過ごしている場所かというと、そんなことはありません。講師の仕事はしていますが、それは一週間のうちの数時間です(教師という仕事は授業準備に多くの時間を割くので、そこまで含めるともう少しありますが)。
また、教材開発を依頼されるとき、そこで言われる「教育現場」というのは、僕ではなく依頼者側の日常であることがほとんどです。たとえば僕は数年前から、介護福祉士を目指すインドネシア人を対象とした日本語学習教材を開発しています。この教材が使われる「教育現場」のひとつは、日本語研修施設の教室です。僕はこの仕事に関わるまで、介護福祉士の領域についてはまったく無知でしたから、依頼者から話を聞き、この分野の問題を扱う研究会や学会に参加し、教室の見学をして学習者と話をしてきました。そういう経験の積み重ねによって、どんな教材を作るべきなのかが見えてくるわけですが、現場と僕の関わりは間接的なままです。
ということで、自分が日常的にいる場所でもなく、主体的に活躍する場所でもないけれど、自分の仕事の価値を判断される重要な場所のひとつであり、常に意識している場所でもあるのが、僕にとっての教育「現場」です。
多様な現場の多様な事情
さて、直前の文で「自分の仕事の価値を判断される重要な『場所のひとつ』であり」と書いたのは、文字通り「他にも価値を判断される場所」があるという意味です。一般に、開発現場と利用現場というように単純に二分する向きもありますが、もう少し具体的かつ細かく考えたいという思いがあるのです。
先に例として挙げた、介護福祉士国家試験に臨むインドネシア人の場合、彼ら彼女らが研修生として日本語を学ぶ研修施設は、教材が使われる現場です。しかし現場はそこだけではありません。部屋で自習をする場合は、そこに学びの手ほどきをする教師はいません。また、研修生が来日前、自国で日本語を勉強する際にその教材を使う場合は、日本のそれとは状況(たとえばネット環境など)が違うことも多いでしょう。さらに研修後、研修生は施設に配属され、そこで働きながら試験の合格を目指して学び続けます。その施設(まさに研修生にとっての介護「現場」)でスタッフの協力を得ながら勉強を続けていくことも、教材が現場で使われるイメージのひとつとして加えなければいけません。
さらに、開発教材や開発プロジェクト自体の価値が問われるという意味では、教材が使われる場所以外にも重要なところはあります。大学の研究成果を使わせてもらうときは、その研究データの特徴を生かした教材に仕立てることが大切ですし、開発プロジェクト自体をうまく研究の一部に組み込んでいくことが理想です。それによって開発資金を得たり、開発した教材を世に広めたりもできますから、僕もプロジェクトチームの一員として研究計画書を書き、研究発表をし、研究報告書を書いたりします。研究者の生きる世界もまた重要な現場ですから、そこを無視して開発をするわけにはいきません。
他にも、教材を利用してもらったり、開発過程でテストしてもらったりするときは、現場の学習者や教師はもちろん、施設のスタッフやエライ人の協力が必要です。もっとさかのぼって言えば、協力を依頼する施設にコンタクトを取るために、業界という現場のルールを理解し、それに合わせた手順を踏まえる必要もあります。
これが私の生きる道
まぁ、そういうことってつまり、ユーザーやステークホルダーのことをふまえ、ニーズやストーリーやシーンを考えつ、それらにプライオリティをつけて開発していく、ということでしょ?というと、一般的にはその通りです。そうなんですが、僕は具体的にひとつずつ、それぞれの現場の事情や関係者をイメージして、プロジェクトのデザインを考えていくんですよね。そこをどれだけ具体的にできるかで、仕事の質は変わってくると自分では思っています。
で、そういうことをする際に、冒頭の自己紹介で書いた、自分の中途半端なキャリアが生きてくる(というか生かさざるをえない)わけです。自身が開発者や、ディレクターや、現場教師や、研究者といったポジションを状況に応じてやってきた(ている)経験が、それぞれの現場の事情を理解し、必要に応じて必要な振る舞いをしていくことを助けているように思います。
ということで、僕はそういう感じの、広い意味でのデザイナーをやっているという話でした。こうした仕事のアプローチの仕方が、今後どこまで価値を保っていられるかはわかりませんが、周囲から「ちゅ〜〜〜とはんぱやなぁ〜!!」と言われないよう、スキルを広げつつも磨いていきたいと思っています。
・・なんとも懐かしいギャグで一気に場が引いたところで、次にバトンを渡すことにしましょう。次回はhapickyさんです。どんなお話をしてくださるか、僕も楽しみです。