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わかりやすい文章を書くコツは「慣れ」なのか

とある人が「わかりやすい文章を書くコツは『慣れ』だ」と言っていて、本当にそうなのかなぁとしばらく考えていた。確かにコツのひとつではあると思うけれど、わざわざ一番に取り上げるような要因なのか。他にもっと重要なことがありそうだけど。

そこで思ったのが、ただ単に読んだり書いたりを繰り返すというより、わかりやすい文章を書きたい!という意識を持って読んだり書いたりを繰り返す、そのことに「慣れる」という話かもなぁということ。

他の人のことはよくわからないけれど、僕の場合、わかりやすい文章を書くというのは(少しは書ける自信がついたと思っても)すごく大変だという感覚がある。一発でサラッとは書けない。何回も読み直し、書き直し、イヤになって筆を置いたりを繰り返す。さっきまで学会発表の要旨を書いてたけど、なんだかんだで3日も使ってる。300字なのに。ブログも毎回そんな感じだ。

で、そういう苦闘のプロセスを毎回味わうことには、確かに「慣れ」なきゃいけない。途中で投げてしまったり、満足に読み返しもせずに終わらせてしまうのは簡単だけど、文章の出来は正直。逆に、粘れば粘ったなりに良くなることは多い(やっぱり全然どうしようもないこともあるが)。だから、わかりやすい文章を書くというのはそういうものだ、と思ってやる。そうすることに自分を慣れさせる。

これは読むことについても同じで、日頃から様々な文章に対して「わかりやすさ」を意識して読む。それはわかりやすいか、なぜわかりやすいか、なぜわかりにくいか。そういう読み方をするのは単純に手間だ。でもこれにも「慣れ」るようにする。繰り返していけば、書くときに気にする要素が増えて、試行錯誤の道が開ける気がする。

大学時代の指導教官に「あなたは文章を書くのが本当に下手ですね」と言われたことは、今でもよく覚えている。実際、卒論の途中のバージョンとかは特に、そう言われても仕方がない出来だった。自分の文章がわかりにくいのに気づくことは辛いし、わかりにくい文章を読み返すのも辛いし、いっこうに良くできないまま投じた時間を数えるのも辛い。でも、それにも慣れればチャレンジは続けられる。

たとえ出来の良い文章を書いたと思っても、他人がそれを読んで「文章の出来」を褒めてくれることはそんなにない。内容を評価してくれることはあっても。そりゃそうだ。相手は内容を知りたくて読んでいるんであって、文章の出来を添削するために読んでるんじゃない。ただ、わかりにくい文章であるほど、それが示す内容よりも文章が気になるもの。だからスルーされることは悪いことじゃない。

そう考えると「慣れ」って大事だと思った。そんなつもりの話じゃなかったのかもしれないけど。