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PCカンファレンス参加10年目で感じたこと

先日は毎年恒例のPCカンファレンスに参加していました。今回の会場は東大。初参加が2003年なので、今年はそれからちょうど10年という、個人的には大きな節目でもありました。

分科会の発表でも枕に使ったのですが、僕が大学院で日本語教育を研究することをやめて、Web制作の仕事をしながら情報教育にも関わろうと決意したきっかけが、このPCカンファレンスでした。

10年前のPCカンファレンスでは、参加者である小中高の先生たちが、不慣れなコンピューターを教えなければならないことに苦労している様子がよく伝わってきました。そこで聞こえてきた「Microsoft Officeの検定試験に合格させることを、子どもたちのモチベーションにさせよう」というアイディアに、僕は驚き呆れるともに、激しい不安を覚えました。そんな教育がメインストリームになったら、僕らの未来はどうなっちゃうんだろう。そんなの絶対イヤだ。来年もこの場所に来て、それは違うよって主張しないとダメだ。そんな思いが、僕の進路を大きく変えたのです。

それから毎年PCカンファレンスに参加し、発表もするようになりました。自分から発言することで、自分と同じような疑問、危機感を持っている人たちと知り合うことができました。特段の情報教育を受けた経験もなく、大学の専門は日本語教育で、教育機関に所属することもなく、職業はWebデザイナーだとする僕のような人間は、わりとバラエティ豊かな人たちが参加しているカンファレンスにおいても(そして日本語教育の世界においても)非常に奇異に映るはずです。そういう怪しげな僕に対しても、細かいバックグラウンドなどは一切聞かず、単刀直入に教育のコアな部分の話をして、それで仲良くしていただけるというのは、本当に心から嬉しいことだったりします。

また、PCカンファレンスには大学生も数多く参加していて、それは大学生協のPC講座の学生スタッフだったりするのですが、彼らと話ができるというのも参加の大きな理由です。自分の学生時代とは比較にならないくらい、カンファレンスで出会う学生は謙虚で、向学心が強くて、まっすぐな思いを持っていると感じます。教育についても、核心の部分を忌憚なく発言してくれたりする。初心に返るというか、そういうところを思い起こさせるために学生の話を聞きたいんですよね。もう彼らとは10も歳が離れてしまいましたし、彼らには「なぜかカンファレンス後の飲み会に同席する謎の人」という認識をされているのかもしれません。それでも別にいいので、なんとか話を聞かせてもらい、時に何かしら違った視点を投げ掛けられるような自分でいたいなと思っています。

さて、長大な前振りはここまでにして、今年のPCカンファレンスの話に入ります。今年は別イベントの関係で3日目は不参加、2日目の午後の分科会も(会場にはいたけど)まともに聴けずということで、全体的な空気などはあまり言及できません。なので昨年度までに感じていたことと、初日の基調講演や僕個人のプレゼンまわりで感じたことを元に書きます。

基調講演は、東大の山内さんと北大の重田さんでした。その様子は「大学は“印刷革命以来の変革期”に――PCカンファレンス開幕」に記事としてまとめられています。山内さんは自身の10年の実践を振り返る形で、重田さんはMOOCsが広がりを見せる経緯を説明する形で、教育の現在地を語るというものでした(重田さんのスライドが公開されています)。

聴いていて思ったのは、教育におけるイノベーションというのは、わざと厳しい言い方をするなら、学習者不在、学習者を置き去りして語られてきたところも否定できないな、ということ。教育環境を作るにはお金がかかる。だから教育をビジネスとして成立させるためには、教育機関や民間企業にお金が入る形のアイディアを採用しなければならない。その結果として語られるイノベーションは、学習者からすれば「前からそうあってほしかったんだけど、環境を作る側にビジネスモデルがなかったから、提供されてこなかっただけなのでは」と言わざるをえないもの、だったりするのではないか。もちろん全部がそうではないでしょうし、教育のビジネス的側面を否定するつもりもないのですが。

僕はWeb制作の業界で仕事をしていますが、Web制作に必要な知識とか技術って、学ぶ方法はいろいろあります。スクールとか、書籍とか、誰かのブログとか、ドットインストールみたいな動画サイトとか、セミナーとか、有志の勉強会とか、もちろん公開サイトのソースを解析することもあります。僕は基本的に書籍で学んだのが始まりですが、この10年近くのあいだに技術の移り変わりはいろいろと起きていますし、環境の変化によって前提となる考えも大きく変わっています。常に先を予測しながら、予測できない変化に対応する。そのために学び続けなければならないことは、この業界で仕事をしている人の多くが実感していることだと思います。その継続的な学びのために学校に通うことは、金銭的にも時間的にも負担が大きく、みんがみんなはとても続けられない。だから、上記のような方法で学んでいくことも普通になっています。

そういうことを経験してしまうと、大学院にもいた経験があり、いま学校教育に携わっている僕自身ですら、わざわざ学校に行かなくちゃ学べないことって何なの?という疑問は抱くようになります。まだ真面目な学生には「勉強=学校に行く」の刷り込みが強い感がありますが、学校を卒業して様々な選択肢の現状が見えてくれば、そういう疑問を持つようになるでしょう。そして今後は、例えば「先生の授業なんて出る意味がないよ。それだったら家でYouTube見ればいいじゃん」という感覚の子どもたちが出てくるのでしょう。

だから学校はいらない、というのではもちろんなくて、学校でできることは何か、授業の場でできることは何か、教師ができることは何かを考えてやっていかないとね、ということです。それは今という時代がどうだからというわけではなく、教育に携わるものは最初から常に考えていなければならないことだったはず。それがコンピューターやインターネットの普及によって、よりはっきりとした形で問題となってきただけのこと。

大学も大変な時代になってきた。教師も大変な時代になってきた。そう言いたくなる気持ちはよくわかります。でも、それって教育提供側の一面的な感覚でしかありません。学習者からすれば、選択肢が広がり、わけのわからない授業に人生を浪費させられることを回避しやすくなった、とも言えるわけです。そして、学びの必要性をまだ実感していない人、学びをどう評価したらいいかわからない人に対して、社会がどのように働きかけていくかが、ますます自分たちの未来を決める時代になったのだと思います。

8月の酷暑(今年は珍しくマシでしたが)の週末にわざわざ、このPCカンファレンスに足を運ぶ意欲のある人たちであれば、きっとそのことには気づいているんじゃないでしょうか。坂道を転げ落ちないよう、そろそろ各自が本気を出してやっていかないといけない時代だと思います。10年前のあの時には見えなかった希望が見える一方で、変わる時は急速に変わるのだという危機感が増した、今年のPCカンファレンスでした。