withComputer

言葉だけを飾っていても、ダメ。

とある仕事でWebコンテンツの企画書を書いていたときのこと。それは、例えばコンペのように僕の企画が通るか勝負するという類いのものではなく、クライアント側とそれまで話し合ってきた企画を、外部に説明する文書という位置づけでした。だから、まぁクライアントの内部文書をいっしょに作るみたいな感じです。

で、そのコンテンツはちょっとしたe-Learningものなので、学習者に対して**なサービスを提供する、みたいなことを書いてたのですが、担当者から文章表現にツッコミが入りました。「せる・させる系」や「てあげる・てもらう系」の言葉は使わないようにね、とのこと。

前者は「学習者に**させる」みたいな文面です。これについては僕もうっかりというか、すぐ素直に表現を改めようと思いました。専門外の方はピンと来ないかもしれないのですが、大学で日本語教育を学んでいたころ、指導教官によくそう言われていたのです。「せる・させる」という表現には、立場を利用して学習者に何かを強制する気持ちが表れている、それが適切なのか?という問いです。実際には、教育や学習の教科書にはよく出てくる表現なので、こうした考え方は主流ではないのかもしれませんが、僕は「使わない方がいい」と思っている人なので、そこは修正しました。

さて、問題は後者です。これは「学習者に**を知ってもらう」とかいった文面。これが引っかかった理由も、おそらく先の「せる・させる」と同じ。そのことは僕も感覚として理解しているのですが、こちらは他の表現にしようとすると、何だか妙な文になる。むむ・・・。

例えば、企画の目的が「学習者に日本語の語彙の豊かさを知ってもらう」というものだったとしましょう。内容はいいけど表現を変えましょうね、となった場合、どうするか。1つの解答例として提示されたのが「学習者が日本語の語彙の豊かさを知る」でした。確かに「てもらう」はなくなって、内容も変わっていない。でもこの表現は別の意味で妙に引っかかるのです。

その引っ掛かりは文の主体にある、と僕は思いました。元の文の場合、サービスの提供者が主体となり、学習者に対して働きかけるという形です。いっぽう解答例は、学習者が結果どうなるかは示していますが、その結果に影響を与えた者の記述はない。主体はぼかされているわけです。もちろん、この文書は企画書であり、こうした主体のはっきりしない文が続いていても、サービスの提供者がその主体であることは読み手には明白です。しかし「てもらう」を避けるためのこうした言い回しが続く企画書は、かなりの違和感を感じました。

僕は「せる・させる」に対する意見と同様に、学習における力関係を言葉で示すような表現は好きではありません。そういう言葉を無意識に使うことが、力関係を強調したり、固定化したりする態度にもつながっていくと思うからです。これは昔からずっと自分が気にしていることでもあります。だから、担当者のツッコミの意図もわかるし、修正するのが気に入らないというわけではないです。

でも、まったく力関係がないというか、影響を及ぼす方向性が存在しないフラットな状況というのは、それはそれで考えにくいものです。e-Learningな何かを提供することには、提供側としての意図、狙っているゴールがあります。その意図とゴールを説明する企画書という文書なのに、その意図や目的を提示する主体が「隠されている」といえなくもない、と思うのです。提案である以上、何らかのアプローチはするわけです。そのアプローチに対して自覚的になることは大切だけれども、自覚的になったからといってアプローチそのものの方向性が完全に消えるはずはないでしょう。相手とフラットになったと思ってはいけない。フラットでなければならない、と思うから無理があるのです。

最近読んだマーケティング系の本に「ターゲットというのは軍事用語。こんな言葉をマーケティングに使い続けているのは良くない」という主張があったのですが、その意図がわかるいっぽうで、やっぱり「マーケティングは実質的に、消費者をターゲットの対象として捉えるようなことをやっている」という感覚があるのも事実です。「ターゲットじゃない、仲間なんだ!」と言ったところで、やっぱり市場の開拓、ニーズの掘り起こしという作業には、提供者と消費者の間で力関係が存在していることが前提にあります。

かのスティーブ・ジョブズは、消費者が欲しいものを調べて製品化するのではなく、消費者が想像しなかったものを提示して「君たちが欲しかったのはこれだろう?」と消費者を染め上げてしまう手法を取っていると言われます。そんなジョブズのやり方は悪くて、消費者との共同開発は良い、というのも変な話ですし、そういう状況をことさらに憂えるというのもなんか違う。マーケティングってそういうものでしょう?それはわかってるんでしょう?という。

言葉を問い直すことで、そこに潜む意識や社会的な力関係を認識し、考え、よりよい行動に反映させていく。そのこと自体は大切なことだと思うし、必要なことだと思っています。でも、表現を変えていくことにとらわれすぎていると、逆に、そこに存在している意識や力関係を「はじめからなかったこと」にする危険性もあるのではないでしょうか。言葉で体よく繕ってしまうことに慣れて、言ってることとやってることが違うことに気付かなくなる、そんな気がします。

言葉から認識は伺える。でも言葉=認識とは限らない。大切なのは認識の方であって、言葉はそれを見定める道具のひとつでしかありません。でも同時に、言葉という道具が心を形作っていくこともあるから、言葉が大事だともいえる。片方だけで安心してはいられない、ということでしょうか。