ノートを取れと言わない理由
- 2015年05月06日
- 教育
いわゆる座学系の授業を担当する際、僕は学生に「ノートを取ること」は強く求めません。もちろん、学生が自分の判断でメモすることは大いに結構なんですけど、教師の側から「これをノートに書きなさい」といった指示を出すことはありません。後で参照してもらいたい資料や、授業で説明に使ったスライドは、ファイルの形で学生に配るようにしています。
このことについて他の教師から「どうして学生にノートを取らせないんですか」と聞かれることがあるのですが、逆に思うのが「学生がどのようにノートを取れば効果的な学びになるのか」ということです。実際に逆質問しても満足いく答えは返ってこない(その質問によって、ひねくれたヤツだと思われてしまう)ことが多いので、聞かずに「思う」だけなんですけど。
思えば高校の歴史の先生は、キーワード部分が空欄になったプリントを配って、学生にその穴埋めをさせるタイプの授業をしていました。穴の埋まった資料がないとテストで点が取れないので、みんな居眠りしながらも必死に書き留めてましたが、この方式がかえって、学生をキーワードの丸暗記に走らせる状況を作り出していたように思います。最初から穴の埋まったプリントを配ってよ、と教師に言ったことがあるんですが、それだと学生は授業を聴かなくなるでしょ、みたいな返事でした。そうかもしれないけど、それってどうなの・・と思った記憶があります。
国語は別のタイプのノートの取らせ方で、これはもう不思議なくらい、中学、高校とすべての先生が「黒板の模写」を要求していました。赤いチョークで書いた部分は赤いペンで書く、黒板を上下に分割にした場合はノートも二分割にする、というように。他のスタイルはないものかなぁと思った僕は、教育実習の授業を担当する際に、わざと黒板のあちこちに板書することをやってみました。すると学生は「先生の板書スキルが酷すぎる」とか「そのままノートに写せるように黒板を使うのが教師のあるべき姿」などと猛反発。結局オールドスタイルに従うことにしましたが、実習生じゃなかったら学生と話しながらチャレンジを続けてみたかったですね。あれはいろいろと考えさせられる出来事でした。
こうした経験から「教師が言った通りのことを指示された形でメモする」というのは、効果的な学びにはつながらない部分も多いんじゃないか、と考えるようになりました。学生からすれば、それまで教師が勧めてきた形なので慣れもあるでしょうし、教師も学生のノートを見て「しっかり授業を聴いているなぁ」と実感することもできるし、手も動かしているほうが単に聴くだけより集中が続きやすいというのもあります。ただ、実質的な学びの効果としてはどうなのかなぁと。
あと、これからは「検索する」というのも前提に考えないといけないでしょうね。ちょっと検索すれば済むような情報、検索すれば目的が達成されるようなレベルの話であれば、わざわざメモすることにエネルギーを使う価値はあるのか。逆に、簡単な検索だけでは解決しないようなことを授業で扱っていく、コピペだけでは足りない知見を書き加えていくのが、教師や学習者に求められることだと思います。
特に大学の授業は、分野を問わず座学に向いた内容のものが多いでしょうし、何でもアクティビティを絡めた派手な授業形式に落とし込めるわけではないでしょう。講義形式がベースの授業をどう工夫していくのか、そのあたりの知見を必要とする教師は(僕も含めて)多いように思いますが、どうも見聞きする機会が少ないんですよね。なんでなんだろう。