名刺は不要、な時代だからこそ
- 2013年08月30日
某所で名刺の話になったので、ちょっと思うことをまとめてみる。実は(というのもヘンだけれど)名刺というツールは僕がずっと関心を持っているもののひとつで、学会発表や、WCANのLTや、あと電子書籍でも1章まるまる使ってアレコレ意見を言っている。そのへんご存知の方は繰り返しになるので、まぁスルーしていただければ。
ホリエモンこと堀江さんが、Facebookがあるんだし名刺いらないよね、という話をしていたという記事が以下(週刊朝日からの転載なのかな)。
ホリエモン 「名刺は不要、日本は無駄が多いよ」|dot.(ドット)
この記事を見かけたのもFacebookのウォール。紹介していた人は否定的なコメントをつけてたんだけど、僕には同意するところの多い内容だった。確かにFacebookがあれば「名刺がなくても簡単に人とつながれるし、交流することができる」。僕も「名刺を頂いても二度と連絡しない人のほうが多い」し、出会って数日のうちに何らかのやり取りが発生しないような相手とは、ほとんどの場合それっきりという感じだ。
でも、だから名刺はいらないよ、というのが僕の言いたいことじゃない。名刺交換は「惰性で続けている」とされるほど習慣化しているからこそ、誰もがスムーズに行なえるという大きなメリットがある。名刺自体に対した価値はないけれど、名刺交換という習慣には(少なくとも僕のようなタイプの人間には)価値がある。
パーティーなど人の集まる場所で、いきなり知らない相手に話しかけるというのは、引っ込み思案な人にはとても勇気がいること。どんなふうに声を掛ければいいだろうか、何の話を切り出せばいいだろうか、そんなことを考えてしまって一歩が踏み出せずに終わってしまう。
でも、名刺交換があちこちで行なわれるような場であれば、その最初の一歩がずいぶん楽になる。とりあえず「すみません、名刺交換いいですか?」とだけ言って近づけば、大抵のケースでは応じてもらえるだろう。たまに「いや、僕名刺持ってないんだよね」と言われることもあるけど、そのときも「自分のを受け取ってもらえればそれで・・」みたいに押し切れることが多い。とにかく簡単に対話に持ち込めるのだから、これほどありがたいことはない。行為そのものが一般的に形骸化してたっていいのだ。必要なのはきっかけなのだから。
で、名刺交換をしてもそのあと会話が続かないと辛い。お互い大した共通点がないこともしばしばだから、話題選びが難しい場面だと思う。だから僕は、名刺に「ネタになるようなもの」を潜ませるようにしている。
僕の名刺は(もう長いことマイナーチェンジ程度しか変えてないけど)10色10通りのキャッチコピー的なもの載せている。紙質もちょっと珍しい、厚手のトレッシングペーパーっぽいもの。たまにダサいシールを貼ったりもする。
名刺の交換直後は、もらった名刺の内容を確認することがほとんど。そこに「つっこみどころ」を用意しておくことで、相手が質問してくれる可能性が高まる。聞かれたら、心の中でしめしめと思いつつ、あらかじめ準備していた話を語ればいい。これにはこういう意味がありあまして、とか。実はこういうこともやってる人なんです、とか。
名刺交換は自己紹介が求められる場面とはいえ、聞かれてもないことをべらべらと話し出すのは抵抗がある。でも、相手から質問されれば自分のターンなのだから、安心して話せるというわけ。気にしすぎだって?まぁ、無理に性格を変えなくてもツールでカバーできるんなら、それでいいじゃないですか。
ちなみに今までもらった名刺で印象に残ってるのが、両面印刷のできる紙にまったく同じ内容をプリントしたもの。そこにツッコミを入れたら「わたし、ウラオモテノない人なんです」だって。まぁ一発ネタ的なんだけど、学生の頃はそういうちょっとしたアピールでも印象違うよなぁ、とか思いましたね。
価値ある名刺は「デザイナーが手がけたっぽい美しいもの」だけじゃない。ダサくてもヘンでもいいから「自分の話したいことにつながるツッコミどころ」を加えるのも立派な名刺のデザインなんじゃないか、と勝手に思っているわけです。
会話が弾めばFacebookの友達申請もしてもらえるだろうし、その後のやりとりも続くかもしれない。そうなれば名刺そのものは不要になる。名刺はそこまでの関係に持ち込むためのツール。そう割り切れば、いわゆる個人情報としての住所とか電話番号とかメールアドレスとかは不要かもしれない。名前だけあれば、あるいはソーシャルのアカウントさえ書いていればいい。そんなふうに考える人、もっといてもいいと思うけどな。