学べる学習者と学べない教師
新年早々に闇ネタですが、興味深い記事があったので。
高校の”情報”の授業におけるマークアップ言語の闇 * まちづくり×ウェブ[榊原昌彦]
もうずいぶん前のことですが、とある研究会で、高校の情報の授業の定期試験問題を目にする機会があったんですよね。FirefoxでHTMLを表示したと思われるスクリーンショットを示して「この表示になるようなHTMLを書きなさい」って問題なわけですよ。戦慄しましたね。
いやさすがにこれはアカンでしょ、とつい熱くなって指摘したら、目の前に座ってたベテランの教師が問題作成者だったようで、場が静寂に包まれました。でもあのときって、真相を確かめてはないですけど、なぜその問題がダメなのか分かっていない教師も場に少なからずいただろうと思っています。
Webデザイナー養成の専門学校で「レイアウトでスペースを確保したいときはbrタグを必要なだけ入れましょう」とか教えられた経験のある僕は、教師も教科書も試験も、疑いのまなざしを持って接するように育ちました。でもそういうのって、正しさや適切さを知らなければ判断できないわけですよ。
この例みたいに、最初から間違った理解をしている教師や、10年以上前に滅んだ常識をドヤ顔で語るような教師が現場にはいます。やんわりと指摘したりもするんですが、正しく理解していない人は「何がそんなに問題であるのか」も正しく理解できないので、ただ単に険悪な空気になるだけだったりします。
あと、もともと自分が詳しくない分野を教えざるを得ない場合もあって、その分野を深く知ることに時間を割けない、割きたくないという教師側の気持ちもあると思うんですよね。「あなたはそれが専門だからお詳しいかもしれませんけどー」という反応が返ってきたりします。けどーってなんだよ。
教師だって完璧ではないので、常に自問自答して、自分をアップデートしていかないといけない。自分より詳しい同僚教師、学生、教育業界以外の人たちから素直に学ぶべきだし、そのための時間や体力を確保しないといけない。そう思ってやっていますが、なかなか大変だし、教師のすべてが実際にそれをやれるとは思えないところも残念ながらあります。
それができない教師は、学びにおける役割を変えるか、表舞台から退場するしかないのでしょう。教師としても活動している僕がそう言うと物騒に映るのでしょうが、ITとWebによって学習者が主体的に学べる環境が整えられていくことで、学習者側が自然と教師を見限っていくのかなぁとも思っています。そっちのほうが、歯止めが効かないぶん残酷じゃないでしょうかね。