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みんなで教室で学ぶことの意味

教室という場所にわざわざ集まってみんなで学ぶ理由は何か、ということを最近よく考えます。

インターネットが当たり前のようにある今の時代、大抵のことはコンピューターがあれば学べる、という状況であるように思います。例えば僕がHTMLを学び始めた10年ちょっと前、もうすでにインターネットはあったけれど、HTMLについて解説している質の良いサイトはそんなに多くなくて、既存のサイトのソースを見て学ぶというのもちょっと難しくて(当時はオーサリングソフトが吐き出す汚いテーブルレイアウトのソースが多かったし)、丁寧に教えてくれる教材は書籍でした。

いまHTMLを学ぼうとするあなたは、10年前よりずっと質の高い書籍、質の高いサイトのソース、質の高い解説サイトを参照して効率的に学ぶことができます。週末はあちこちで研究会や勉強会やセミナーが開催されていて、おまけに動画の中継なんかもあったりします。SNSなんかを使えば個別の質問にも誰かが答えてくれたりします。

まぁHTMLはネットと親和性の高い学習テーマではありますが、他のテーマであっても、ネットは本当に強力な学習ツールと言えるでしょう。学校に行かなきゃ学べない、なんてもう古いというか、学校の教師の知識がネット以下ということも珍しくない時代です。

そんな時代だから、教室という場にみんなを集めて、一斉授業形式で単なる知識の注入を行なうような授業は、少なくとも僕が学生なら価値を感じません。そんなのは他の方法でもできる。今この場で教師と対話ができるとか、学生同士で意見を交換できるとか、互いの存在を感じることで意欲を高められるとか、そういう「時間と場所を共有しているからこそできること」にウェイトを置いた授業の方が望ましい。僕が学生ならそう思うし、そう思うから、教師としてそういう授業を念頭に置いているわけです。

でも実際は、学校の体制とか学生の意識が、それに必ずしも合致しているわけじゃなくて、結果として「一斉に学ばされる場所としての教室」みたいな形にならざるをえないケースが多いのも事実。教師も学生も学校も、みんなで「学ぶ環境」を作っていく意識がないと成立しないお話なのだから、まぁそりゃ簡単なことではないんですけどね。

問題だと思うのが、いわゆる「学校」を卒業する年齢以降、本格的に仕事をしはじめたりオトナとして扱われるようになってからは、これまでのような学習スタイルで学ぶのは非常に難しい、ということです。例えるなら「誰かが環境を整えてくれている場所に好き勝手に入って自分は何かを得る側にいるだけ」という学習スタイルは、そうそう上手くいかないということ。本を買ってきて勉強するには、本選びから学習管理まで自分でやらないといけない。誰かに教えてもらうには、相手を見つけてお金と時間を払って気を遣いながら学ばないといけない。学びのコミュニティは存在するけれど、もちろんクレクレ厨では相手にされなくなる。うまく学べなくて、もう学べなくなってしまう、というような。

学びの対象と自分との関係が見えにくいときは、どうしても「学ばされている」感じがするので、学びに対して受け身でいることが普通になってくるものです。そこは仕方がないとしても、学校を本当に卒業してしまう前に、学びにコミットする術を学んでもらうことはできないのか。そのための教室ではないのか。そんなことを考える日々です。