いじめを後押しするもの
- 2012年07月06日
死に急がず、学校に行かず、他の場所で生き延びろ。それは個として強く生きろというメッセージなんだろうなと思いました。学校に限らず社会のどこでも「いじめ」は存在するし、特に学校という環境では「いじめが起きるのが普通」とさえ言えると僕は思っています。だから「その場を離れろ」ということなのでしょうが、ただ、それが「逃げろ」と表現されることに、なかなかやりきれない部分も感じます。いじめた側が悪いのに、悪くない側が場を追われることを、僕らは容認しています。自尊心を傷つけられ、負け組扱いの重荷を背負わされる側からしたら、社会というものは理不尽すぎると感じるだろうし、大人は信用できないと強く感じると思うんですよね。
僕も、小・中・高でいじめ的な目に遭った時期があります。仲の良い男友達や、昔好きだった女の子が、いじめの首謀者だったとこともあり、けっこうショックを受けた記憶があります。辛いなぁと思いながらも、人はちょっとしたきっかけ、全然関係ない不安なんかによって、誰しもいじめに走ってしまうものだ、とも感じていました。いじめの傍観者も含めれば、本当に簡単にいじめる側に立ってしまう。その方が楽ですし、実際僕も楽な方に流された経験があります。だから「自分はいじめをする側に回ることはない」などとは、とても言えません。
学校という環境や、小・中・高の学生という年齢は、人がそれぞれ持っている「いじめに走ってしまう気持ち」を後押しする部分があると思います。だからまずはそれを認めて、本当に大事になってしまう前に、意識して互いにケアしていかないといけない。いじめを断固許さないという姿勢だけでなく、その芽を早く見つけて、その背中を押そうとしているものに向き合わないといけない。すごく難しい問題ですけど、それしかないんじゃないだろうかと思っています。
いじめた人や、いじめられた人を、一時的にその場から退場させても、それが人を替えて永遠に繰り返されるだけ。そして、退場させられた人のそれぞれの人生は続いていく。
難しいと言っているだけでは、いけないのですけどね。