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青木先生と僕

「どうして先生は、お互いのことを『先生』って呼ぶんだろうね」

日本語教育を学び始めたばかりの僕に、指導教官の青木直子先生はそう問いかけた。なるほど確かに、学生の前でならともかく、教師だけで話しているときも、教師は目の前の相手を「**先生」と呼ぶことがほとんどのように思う。考えてみれば不思議だ。

たぶんその時のことがきっかけで、僕は仕事仲間の教師のことを、極力「**先生」ではなく「**さん」と呼ぶようになった。たとえ相手が名誉教授とかすっごくエライ先生であっても。たまにそれで嫌な顔をされたり叱られたりすることがあっても。

そんな僕ではあるが、青木先生のことは「青木さん」と呼ばない。それは、青木先生が僕の指導教官であるということもあるし、呼称としての「青木先生」が普通になりすぎて今更変えにくいということもある。でも、青木先生は僕が出会ったなかでいちばん「先生」らしくない人だった。

学部生のときの最初の授業、教室に現れた青木先生の最初のセリフは「ねぇみんな、今年はどんなこと勉強したい?」だった。え、最初に担当教師が授業計画を提示して、それに沿って進めて行くんじゃないの?と動揺する僕をよそに「じゃあ、院生を中心に4人グループになって話し合って。私はちょっと用事があって席を外すから、戻ってきたときに結果を教えて」と言い残して教室を出て行った。そしてそれで何の問題もなく授業が回っていく。あのときの衝撃は今でもはっきり覚えている。

青木先生は、学生の何気ない発言や行動にツッコミを入れることが多かった。たとえば「本当にそれが正しいのかしら?」とか「必ずしもそうとは限らないんじゃないの?」とか「何それ。ヘンなの!」とか。指摘をされるのはたいてい、教師や学習者や教育に関する、自分が今まで当たり前だと思ってきた感覚・考え方についてで、だからこそ指摘の意味するところが即座にはわからない。わからないからといって黙っているわけにもいかず、そうですねなどと安易に訂正や撤回をするとさらに厳しいツッコミが来る。ボコボコに言われて泣きそうになったことも覚えている。

そんな青木先生とのやり取りは、僕が修士で大学院を離れウェブ制作の仕事に軸足を移して以降、当然ながら大きく減った。青木先生が関わるイベントの広報サイトの制作など、制作者としての関わりはときどきあったものの、その時もお互いに作業以外の話はほとんどしなかった。用事で大学を訪れる機会があっても、ダメな学生だった在学中の自分を思うと恥ずかしくて、研究室にも青木先生の部屋にも顔を出せないでいた。うまく説明するのが難しいが、近い存在だけど声をかけるのはちょっと勇気がいる、そんな関係を続けている認識が僕にはあった。

ただ、そうした環境の変化は、青木先生から学んだことの大きさを逆に実感させることになった。大学院を出たときは「もう自分は教師をすることはないんだろうな」と思っていたが、いろいろな縁があって、日本語教育以外の分野で授業を担当することが十数年続いている。教師としての行動の引き出しは、青木先生のあの「パッと見は型破りな方法」で広がったし、教師や学習者や授業について考え続ける習慣は、青木先生の「常識だと思っていることへのツッコミ」から始まった。技術や経験を積み上げるための土台となるものを、しっかりと身に付けさせてもらったのだと思っている。いま曲がりなりにも自信を持って教師の仕事ができること、教育について自分の考えを話せることは、間違いなく青木先生がデザインしてくれたことだ。

この2月に日本語教育のイベントがあり、講演者として青木先生が招かれた。僕も続くセッションで少しだけ話す機会があったので、友人からは「師弟共演だね」などと言われたが、師弟関係という形容は本当に合わないなぁと思った。日本語教育の世界にいるんだかいないんだかも曖昧な僕のことを弟子扱いするなんて、青木先生も迷惑だろう。じゃあ師じゃないのかと言われると困るが、とにかくそれはピッタリ当てはまる言葉ではないのだ。

講演が始まり驚いたのは、青木先生が語る「スマホによって学習環境が大きく変わった」という内容が、僕がこの数年セミナーなどで話してきた内容とほとんど同じだったこと。もちろんその内容は、今の時代に教師ならば誰でもそう捉えてしかるべき現状認識だし、僕自身もセミナーではそのつもりで語ってきたこと。きっと青木先生もそういう認識だと思う。だから内容が同じになることは何もめずらしくはない。だけれど、卒業後に自分が見てきた景色、考え取り組んできたアプローチが、青木先生と共通していたことに、僕は勝手にすごく安心したし勇気づけられた。あぁ、僕はべつに的外れなことをやってきたわけじゃなかったんだな、と。

ここまで書いたことは、これまで口に出したり書き起こしたりはしてこなかったけれど、ずっと僕の頭の中で言語化されていて、整理されていたことだった。だからいつでもアウトプットできる状態で、でも気恥ずかしくて表には出せなくて、今年度で青木先生は退官だしお祝いの場だったら少しは言えるかな、どうだろうな、と考えてていた。今年は僕が青木先生と出会ってちょうど20年目なんですよ、と講演の前に話をしてみたら、青木先生は「そうなんだ」とそっけなくて、そこで話が終わってしまったから。

でも、やっぱり言うべきことは後回しにしてはいけなかったんだと思う。青木先生が亡くなったという突然の知らせを受けてから一週間、僕はこの後に続ける言葉が何も浮かばないまま、ただただ心をオフにしたまま過ごしてしまった。

今ごろこんなことを自分のブログに書くなんて、きっと青木先生には「私が反論できないのをいいことに、何を勝手に書いてるのよ!」と怒られると思う。いっそ怒られればよかった。どれだけ怒られたって、ちょっと泣くぐらいで済んだだろうから。

ただ、きっと青木先生は、向こうで新しいフィールドを見つけて、こっちのことなど気にせずに早速やりたいことを始めているんだと思う。勝手な決めつけだけど、そう思うことにする。フィールドが違っていても、顔を見合わせて話さなくても、心に留めるべきことは心に留め、自分のやるべきことをやる。これまでもそうしてきたのだから、これからもそうしよう。

今の僕は、そう自分に言い聞かせるのがやっとで、他に何も言葉が出てきません。