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議論は新しい視点の獲得のためだと思えばいい

この数日、とあるデザイン概念に関する意見のやり取りを追っていたのだけど、理論や手法としてどちらが正しいか(あるいは優れているか)に意識が向きすぎてしまうのは良くないなーという思いを強くした。すごい理論や手法を打ち立てることで飯を食ってる人とか、議論そのものが専門の人とかならともかく、自分の目の前にある課題を解決したいから理論や手法を探っている多くの人たちにとっては、その課題から自分が飛び出してしまうことには慎重になった方がいいと思う。

ぼんやりとであっても長いあいだ自分が考え続けてることは、どんどん自分自身と不可分になっていくもの。自分の考えが自分自身になっていくと、その考えを否定されることは自分自身の否定のように感じちゃうから、反論を受け入れられなくなる。瑕疵があっても無視するようになって、自分に都合のいい意見だけを拾って自説の補強に使ってしまう。相手の文章はあら探しの視点で読んでしまって、本当は反論ではないような内容であっても噛みついてしまう。

ここは意識的に「なるほどそういう視点なのか」と考えるといいんじゃないかな。どっちの意見が上とか下とかじゃなく、別の視点を獲得したと思うようにする。大事なことは、どちらか一方の視点の延長に隠れているとは限らない。三人寄れば文殊の知恵じゃないけど、視点がいっぱいあれば、もっと大事なことが見つかりやすい、と思うようにする。自分の意見も他人の意見も大切に、でもある意味で軽く扱うようにすれば、もっと心穏やかに目の前の課題を見つめられる気がする。

現実って、ぐっちゃぐちゃでツッコミどころ満載だからなぁ。だからこそ、スマートでシンプルな概念は魅力的に映るし、ついついそこに乗っかりたくなるんだと思うのです。