文語文の教育研究イベントに参加してきた
- 2020年02月03日
この週末は、東大で開かれた「留学生への文語文・くずし字指導を考える」という研究イベントに発表者の一員として参加していた。このイベント、どうもオンラインでは特に告知はなかった(関連研究会のメーリングリストへのポストが主体?)ようで、僕の気ままなツイート(@shokuto と イベント名でググってね)ぐらいでしか内容を辿れないけど、まぁそんな感じの(どんな)イベントでした。
僕にとっては超絶専門外な領域だけど、文語文の教材サイト(有名な日本の古典文学作品のルビ付き解説がコンテンツ)の制作をお手伝いしている関係で、いっしょに発表させてもらうことになったという流れ。発表での僕の役割は、実際のサイトを見せて解説するという、制作者なら誰でもできるようなプレゼン。でも他の発表者の取り組みは普通にガチな感じ(そりゃそうだ)で、僕はいかに文語文や漢文の教養がないか、改めて思い知らされる1日だった。
留学生などが文語文や漢文を読む理由は、素人考えだと「土佐日記を原文で読もう」みたいな古典文学寄りのイメージになりやすいけど、実際は文学だけでなく、歴史や経済や哲学や建築などの専門分野の論文の中の資料にも文語文や漢文は出てくる。コンテンツは当然ながら様々な専門領域のものになるし、それを読もうとする留学生の専門も様々になる。その道のことを知らなきゃ話にも入れない。
で、そういう留学生を支援するのが日本語教師で、支援の場が日本語の授業だったりするのだが、どうやって支援するんだ?と思う。確かにその文語文は日本語には違いないし、この漢文は日本の文献だ。でも特別な専門知識がないと読めないんだぞ。内容理解にも専門的な前提知識を必要とするし。なんというか、日本語教師に要求される守備範囲、広すぎじゃん。
そして、元々そういう専門性を持った日本語教師(そもそもそんな人はめっちゃ少ない)だけがその仕事をするわけではなく、まさか自分がやることになるとは・・という人も多いんだろう。ちなみに僕は介護の日本語に関わって10数年経つが、きっかけは本当にたまたまで、当然何の専門性も持ち合わせていなかった(けど、やる以外の選択肢は実質的になかった)。僕は制作者としての関わりではあるけど、日本語教師の担当フィールドってたいてい「成り行きで投げ込まれた現場」じゃないかなぁ。つまり、いろいろ分からないなかでも教育体制を作って、さらにその質を上げていかなければならない仕事、ということ。
そのために必要な要素はいろいろあるけど「日頃から他分野にも意識的に目を向けて、広いエリアから学んでいけるような自分を目指す」ということは重要だと思う。通常モードが無関心だと、いざ環境やミッションが激変したときに動けなくなる。
そのむかし日本語教育の国際大会(@釜山)で、介護の日本語に関する自身のセッションの集客のためにチラシを配っていたら、介護とか私には関係ないんで!ってわざわざ言い返してきた日本語教師がいたのを今でも思い出す。あのときはさすがにイラっときましたね(笑)。いずれ介護の日本語の仕事が回ってくるかもしれないし、何より自分が介護されたい側に回ることだって遠くない未来の話なのに。
僕もいい機会だと思って、まずは学びのアンテナを張ることから始めます。