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情報デザイン、UX、IAの定義についてヒトコト

未読ですが「情報デザインの教室」という本がありまして、Amazonの内容紹介データの冒頭に、情報デザインの定義が以下のように書かれています。

うれしい体験をつくることを「情報デザイン」と呼びます。

たぶん読み手のことをいろいろ考えて、こういう表現にしたんだと思います。それに悪気がないのは重々わかるんですが、それでも「情報デザイン」の定義を「うれしい体験をつくること」としてしまうのは、それどうなん?と。

そもそも「情報」も「デザイン」も、定義が難しいというか、何を指すのかが一般にはわかりづらい言葉だと思うんですよね。情報教育、とか言うときの情報もそうですよ。「情報」って何なん?え、そんなゆうたら全部「情報」やないけ、みたいな。見た目を飾り立てることが「デザイン」だと一般に思われてることも多いですよね。僕はデザインの訳語としては「設計」という言葉がいちばん好きですけど、それでも抽象的でよくわからない感じがするかもしれません。

身の回りのものごとの要素を「情報」と捉えて、それを「デザイン」すること。それを「体験をつくること」と説明するのは悪くないなぁと思うのですが、なぜそこに「うれしい」体験という形容をつけなければならないのか。じゃあ「かなしい体験をデザインすること」は情報デザインじゃないのか、と。

デザインは「何らかの意図に沿って」要素を並び替えたり加工したりすることだと僕は思っています。その意図が「うれしいと感じてもらいたい」というのであれば、その意図に沿ってデザインすることは「うれしい体験をつくること」です。だから「悲しみを感じてもらいたい」という意図があるデザインは「悲しい体験をつくること」になると思うんですよね。「体験」を形容する言葉は、デザインの意図によって決まってくるのであって、別に「うれしい体験」がデザインに必須なわけじゃないと考えています。

もうひとつ。その「うれしい」は、誰にとっての「うれしい」なのか?ということ。こんなふうにデザインすればきっとうれしいんじゃないかな、と考えて実践するわけですから、うれしいと感じるのはデザインされたものに接する人なのですが、うれしいという感情を定義しイメージするのは、デザインをする人です。もちろん「私のうれしい=あなたのうれしい」になればいいですけど、人によって考え方や感じ方は違うので、その範囲はまぁ、広さの違いはありますが限定的ですよね。

なぜこんな細かいことにこだわるのかというと、デザインという行為を無条件に無意識に「よいもの」と考えるのは危険だ、と思うからです。昔読んでいた雑誌に「デザインは人を殺せる」という言葉が載っていて、それが今でも印象に残っているんですよね。デザインは人の心を動かす、というデザインの影響力の強さを語った言葉ではあるのですが、その方向性を間違えれば、それは何より危険なものにもなるわけで、デザイナーは心してデザインしなければならないというメッセージです。

デザインされたものによって、人はうれしくもなるし、悲しくもなる。そのデザインが意志の表れであっても、無意識の表出であったとしても、デザインされたものは人の心を動かしてしまうんです。だから、自分がやっている「デザイン」という行為に対して、できるだけ自覚的でありたいと思うんですよね。デザインが「うれしい」体験をつくることだと言ってしまうと、どんなデザインもプラスの程度の違いにしか見えなくなってしまうような気がするのです。極端に言えば、オレは社会に良いことをしてるんだ!という思い込みに陥らないとも限らない。

最近僕がTwitterのツイートで、UX(User Experience)とかIA(Information Architect)などの言葉の定義に「よいもの」的なプラスの価値観をくっつけることを問題視してるのは、こういう考えが背景にあります。体験をデザインする。情報をわかりやすく伝える。確かにそうです。でも、その先にあるものが平和なのか戦争なのか、本当に大切なのはそこでしょう。デザインする側に都合の良い道具としてUXやIAを単純に語るのは、ちょっと違う。そう思うのです。