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僕らの感覚、僕らの常識。

容疑者の学生時代の友人とかいう人が、顔を映さないようにしながら「あいつはいつかやると思っていた」とコメントを寄せる。容疑者の近所に住むという人が、ドア越しに「そういえば妙なところがあった」とコメントする。

相手は容疑者。感覚的には罪人。アイツは悪いヤツ。それは社会の常識。だからアイツのことを悪く言っても、誰からも責められることはない。当時も、もっと言えばニュースを聞くまで、大して気にも留めていなかったアイツのことが、急に「以前から気になっていた存在」へと変わり、記憶にあるおぼろげな言動は脚色され、感覚は別の色に塗り替えられ、容疑者となったアイツの言動に紐づけられる。アイツの社会的信用は地に落ちた。ちょっとした優越感が、普段は冷静に機能していると思っている思考回路をすっ飛ばして、しゃべらなくていい言葉を口にさせる。

これは極端な例かもしれません。でも、それに類する小さなことは、日常の会話の中にも潜んでいるように感じます。僕らの(とあえて言いますが)感覚はちょっとしたことに影響を受けるし、自分の「常識」を支える根拠はとても脆いように思います。そして、愚かな人の姿を見て悲しくなったりしても、別の場面で自分が同じようなことをしてしまったりもするし、そんな自分にショックを受けながら、それでも図太く生きているのが現実です。

結論はないですが、なんだかそんなことを思ったりする今日このごろ。