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教案に対する考え方

一部界隈で教案に関する議論が起こっていた模様。

日本語教師にはどのような教案が必要なのか - Togetterまとめ

僕も思うところをTwitterにちらっと書いたが、いい機会(謎)なのでブログにもまとめておく。ちなみに僕は教師のキャリアは15年くらいだけど、日本語を教えていたのは最初の数年だけで、あとはコンピューター系の実習とか専門講義系の授業をやっている。なので、以下の「教案」の話は、語学教育ではなく、大学の講義のようなものをイメージしていると思って読んでいただければ。

教案の役割は、少なくとも2つあると思っている。1つは「授業のシミュレーション」で、もう1つは「授業時に参照するメモ」。そう考えると、頭の中でシミュレーションがきちんとできる人なら、教案はメモ程度で十分だと思う。ただ、駆け出しの頃で自分なりの型がない場合や、今までと大きく違う内容や方法を扱うときはそれが難しい。そこで紙などに書き出して整理する。書いて眺めることで、考えの漏れも見つけやすい。

なので、教案を書くのにどのくらいの時間がかかるのか?という問いは答えにくい。教案を書くのが目的ではなく、授業内容をしっかり考えるためにやっていることだから、出来上がったものがメモ書き程度でも、その内容を考えるのに苦労して時間がかかることはある。じゃあ授業内容を考えるのに必要な時間は?というと、普段から考えつつ生活をしているから、これもトータルの時間を出しにくい。

僕の担当授業は教科書がない(ピッタリくるものがない)ことが多く、基本は自作のスライドを使って説明をする。スクリーン投影時にはホワイトボードを使いにくい教室が多いので、板書も原則しない。したがってスライドが唯一の情報提示ソースになるため、毎回かなり力を入れて作っている。スライドを作る過程で授業のシミュレーションを繰り返すことになるし、大切なことは漏らさずそこに書くようにするから、これがある種の教案みたいなものだ。

ところで、教案の議論の中で「上司など他人が教案を見て評価する」という観点が出てくることがあるけど、その視点で「教案をどこまで書くべきか」を考えるのは難しい。だってそれは人によるからだ。学習者への問いかけひとつとっても、言葉の選び方や返し方が良くないといった技術的な問題なのか、そもそも問いの内容や意図からして適切でないといった授業設計の問題なのかで、かなり話は変わってくる。教案に書いてないけど授業でうまくやれている場合もあれば、考えてすらいないから教案に書けない場合もある。評価者がどのレベルの問題点を見るつもりなのかで、教案に必要な情報量は変わってくる。そうなってくると、教案を評価する人が要求した記述法で書くしかない。そしてそうやって書いた教案は、必ずしも自分の授業に不可欠なものとは限らないから、自分のための教案とは切り離して考えるべきなんじゃないか。

教案の形を意識して書くのは大なり小なりコストがかかるので、授業準備の効率化の観点では、教師しか見ないような資料(教案)はなるべく簡素に済ませて、頭の中でしっかり考えられるようになることが大切かなと思う。授業の構想ではなく教案を書くこと自体に苦労しているなら、やり方から考え直したほうがいいんじゃないだろうか。幸い今の時代はネットで調べられるし、質問や議論もできる。周囲の常識や限られた経験だけに捕らわれないよう、いろいろオープンにしていくのが解決の早道ではないかと思う。