withComputer

お芝居の経験が生きている

大学生のころは劇団に所属していました、と言うと例外なく驚かれるのですが、3年ほどいました。そのときの経験は特に、今の仕事とかにものすごく役立っています。

もともと演劇は中学生の頃にやっていて、高校は演劇部が開店休業状態だったので入部せず、大学になってまた始めたという経緯です。何というか、役者向きじゃないなというのは自分でも感じていて、役者以外のいわゆる裏方も一通り経験させてもらいました。音響、照明、衣装、道具、装置、宣伝、美術、渉外などなど。脚本や演出のまねごともやりました。あ、会計だけは、そばで見ている程度だったかな。

中でも強く記憶に残っているのが、1つ上の先輩からブランディングとは何かを教えてもらったことです。彼女はポジション的には、渉外として稽古場の確保や公演チラシの広告主探しをする人で、劇団が外からどう見えているかに関していつも気にしている人でした。劇団員というのは個性が強くアーティスティックな傾向があるせいか、外に向けてもオレオレ基準の言動をしてしまうことがよくあります。彼女はそれを冷静に指摘し、劇団はどうあるべきか、そのイメージをどう形作っていくか、座長とは違った視点で意見し実践していたわけです。そういう立場もあって、劇団の中では仲良しの輪に入る感じはなかったのですが、彼女の仕事の哲学というのは、今の自分に影響を与えているなぁと感じます。

お芝居は総合芸術だと言われたりしますが、特に公演の成功というのは、いろんな要素が噛み合って初めて生まれるものです。作品そのものの質はもちろんですが、お客さんに公演の存在を知らせ、チケットを買ってもらうまでがまず大切。そして劇場でのおもてなしは、気持ちよく作品を見てもらうための、地味だけれど失敗できない要素です。お客さんをどう出迎えるか、席にどのように案内するか、前説(始まる前に「携帯電話は切ってね」とか伝えるアナウンスのこと)はどんなノリでやるのか、終演後お客さんをどう見送るか。ちょっとしたことが、楽しい時間に水を差すんですよね。マニュアルとかがあるわけじゃないけれど、みんなで必死になって作り上げた作品を自分の無神経な言動で壊してしまわないよう、いろいろと考えて行動していた記憶があります。裏方でも責任は等しく課せられていて、そこが誇りでもありました。

お芝居そのものも、まさに生き物。毎日同じ演目をやっても、ひとつとして同じものはないんですよね。役者の調子もあるし、お客さんの反応によっても空気が微妙に変わってきます。ここは笑ってほしい、と思っている演技でお客さんが笑ってくれないと、役者も調子を崩してしまいます。挽回しようと無理なアドリブを入れてかえって場を混乱させてしまったり、逆にミスが思わぬ笑いを生んで場が和んだり。役者にとっては、お客さんが声を出して笑ってくれないと反応があるかないか掴みにくいのですが、まじめなお客さんが多いと、クスッとしか笑ってくれなかったりします。そこでこっそり劇団員が客席に座っていて、タイミングよく笑い声を上げてリラックスした空気を作ったりもするんですよね。状況を観察し、細かいサポートを行おうとするその姿勢は、いろんなことに通じるなぁと思うのです。

そんな経験をしてるので、いわゆる「おもてなし」の必要な瞬間に出会うと、いろいろ分析しちゃうんですよね。いまの言動はどうなのかな、他にどんな対応の選択肢があったかな、あれがああなる理由は何かな、とか。もちろんけなしてばっかりじゃなく、いいところに気付くということも含めて、観察モードに入ってしまうのです。

おもてなしが「自然にできる」というのはないと思うんですよ。自然にできているように見えて、その背後には過去の(無意識的なことも含めた)学びがある。意識をすること=堅苦しくすることじゃなく、堅苦しくしないことにも意識と配慮がいるんですよね。意識しないルーズが常に心地よくなるとは限らない。というか、だいたいの場合ならないです。やっている本人は「こんな感じで大丈夫だろう」と高をくくっていても、お客さんは敏感に感じてしまうものです。そしてその小さな心の変化を、お客さんは僕らにわざわざ伝えない。それが積み重なっていき、次回以降は見に来なくなる、という結果で突きつけるだけです。だから、僕らがしっかりと見ようとする意識を持たないといけない。

そんなこんなで、お芝居を作るというプロセスの経験は、すごく人生に役立つのです。だから経験した方がいいよ!って言っても、普通の人にはいまさら無理ですよね(笑)でも、本当に大切な経験だったなぁとしみじみ思います。